「大切な友人をなぜ大切と思うのだろう?」
僕は犬飼ターボさんのセンターピースを受講しています。前回の自己肯定感というテーマの直前に、2つの大きな劣等感に打ちのめされる出来事に直面しました。
前回はその内の1つ、僕は選ばれるに値しないというマイナスのセルフイメージについて触れました。
今回はもう一つのマイナスのセルフイメージ、僕だけが劣っているという劣等感について切り込んでいきますね。
誰よりも優秀だとか崇められるだとか、そんな
大層なものは望んでいない。
ただただ対等でいたい。群れの仲間として。
内面深くブクブクと潜り手に入れた劣等感の裏側に潜む宝物、僕自身の喜びの記憶から生まれたピュアな気持ちと生命力あるエネルギーについての物語。
それでは、はじまりはじまり〜。
前回の記事に触れていた、僕は選ばれるに値しないという劣等感に打ちのめされていたときのこと。
そんな僕の状態とは裏腹に、諸手を上げて祝福すべき報告が舞い込みました。
仲の良い4人グループの友人からの結婚報告です。これで僕を除き、皆が結婚します。
大好きな友人のめでたい報告だ。とてもとても嬉しい。なのに、なのに、ズシッと頭によぎる言葉。
僕だけが劣っている。
めでたい報告を引き金に僕の過去の痛みが蘇っていたのです。
痛みに浸る間もなく、間髪入れず僕の心が僕に命じます。
「祝わなきゃダメだろ!一点の曇りなく!!今のお前の気持ちなんて関係あるのか?本当に大切な友人ならそれでも100点満点の気持ちで祝うべきだろうが。」
劣等感から悲しみに暮れたい自分がいる一方で、それすらも許さず完璧な100点の人間を志向する自分もいる。ジレンマだ。
なぜ僕だけが劣っていると思うのでしょうか?そのきっかけは?
なぜ一点の曇りなく祝えと僕の心は命じるのでしょうか?何を目的として?
この4人グループは大学時代の友人から成ります。
青春を謳歌する輝きの時代。夜な夜なお酒を飲み交わし、過去の恥ずかしい出来事や希望に溢れた未来について、朝まで語ることを幾度も繰り返していました。
僕がボケて、周りが小気味よく突っ込むといういつもの掛け合いが楽しかった。僕は安心してスッポンポンの素の自分をさらけ出せていたと思います。
ところがです。僕は時々ひどく劣等感にやられ、彼らと一緒にいるのが苦しい時がありました。
例えば就職活動がそうでした。
大学3年生から4年生にかけて、僕たちは世の大半の大学生と同じように就職活動を始めました。
僕は化粧品ブランドのマーケティング企画に取り組みたいと思っていたので、そこを中心に受けていました。というかそれら以外はほとんど受けていませんでした。興味が湧かなかったので(気分のムラと0-100思考ですね笑)。
第1希望と第2希望が難なく最終選考まで進みました。しかし問題が起こります。日程重複問題です。
第1希望を優先し、第2希望を辞退しました。当然です。最上を志向しているのですから。
それに自信もありました。第1希望のこれまでの面接を通じ、人事の方や面接官の方と感覚が合っていたのです。
「最終面接もよほどのことが無ければ大丈夫だろう」
たかをくくっていたのですね。
はい。ご推察の通り、ここでお決まりの接続詞が登場します。
しかしです。
不採用となりました。信じられなかった。※恐らく採否を分けたのが、親子関係の質問というのもまた、今思えば味わい深い笑
興味のある仕事、肌感覚に合った会社、あるべきはずの希望の未来への階段が、突如視界が暗くなり、ガラガラガラ!!と崩れ落ちてしまった。
明日が、なくなってしまったのです。
これから先一体どうしたらいいんだ?持ち駒もなくなった。一から動くといっても喪失感に襲われ動けない。何もしたくないし将来なんて考えたくない。※自己責任を棚に上げているのは理解しています笑
声を張り上げても届かぬほどの奈落の底にいた僕に対し、友人達は対照的でした。
リスク分散もしながら、それぞれ納得の出来る会社から内定を得ていました。後は卒業まで学生生活を満喫するだけ。
僕だけが未来がなかった…
友人達は励ましてくれます。優しい人達だから。
それでも、どうしても、僕は目を向けてしまうのです。
僕だけが劣っているという点に。
仲間との相違点だけでなく、自己肯定感も落ちるダブルパンチのフォーカス。
そしてこれは就職活動だけに留まりませんでした。
就職後の職場環境、就労条件、能力、パートナー事情等あらゆる点で僕だけが劣るという点が見えてくるのです。共に過ごせば過ごすほど見えてくるのです。
自分だけが下に位置する感覚分かりますか?
とてもとてもみじめなものです。僕がドン底にいればいるほど、共に過ごすことが苦しかった。余りに眩しすぎて。当然友人たちは劣等感を抱かせるような言動はしません。ですが、僕が自動的に見つけては苦しんでいるのです。
そこまで劣等感を感じるならば、付き合わなければ良いじゃないかって思われますよね?
でも僕はそんなこと一切考えなかった。
なぜだろう?
嵐のような劣等感渦巻く葛藤の果てにたどり着いたのは、
暖かな晴天のようにピュアな喜びの記憶があったという結論でした。
僕だけが劣るという劣等感と、一点の曇りなく祝いたいという高すぎる意欲。
対立する2軸の狭間にいる僕は、混沌の海原を切り抜けるべく、センターピースで学んだねぎらいの心理法則に照らし、劣等感ではなく意欲に鍵があるとにらみました。
悲しむことすら認めず、一点の曇りなく祝いたいのはなぜか?
なぜそこまで全力なのか?なぜ劣等感を強く感じていても付き合うのか?他のグループではそこまで感じないのに、なぜこのグループだと強く感じるのか?
それは
過去の僕が体験した繋がりの喜びがあまりに大きかったということです。
友人達と夜な夜な語り合った内容は、どんな恥ずかしいことも情けないことも、たいそれたことも、全て本心ど真ん中でした。
傷ついているときは、悩みに寄り添ってあげて、嬉しい時は一緒に喜んで。俺の理想の未来は○○だ!と発表し合う。時には涙を流し合いながら笑。
人生における大切なことを大切と分かり合えている人達。
今こうして書いている僕の葛藤も、きっと深いところで共感してくれるような人達です。
自分の気持ちを大切にしていることが同じである。その共通項があり、大切な気持ちを分かち合っているからこその群れの仲間なのだ。
これまでの人生でそこまで分かり合えたことが無かった。大切と思うには十分な群れ。
人間の生存戦略として、群れの仲間から逸れてしまうのは安全から遠ざかり死に近づくことを意味します。自分だけが違うのは本能的に危険を感じるようプログラミングされているのです。
だからこそ、上でもなければ下でもない。同じ立ち位置である必要があるのだ。群れの一員として。1人だけ違っていてはダメなのだ。危険だから。であるが故に苦しいのだ。
また群れで繋がる大きな大きな喜びを味わいました。だから喜びの大きさに比例して、感謝の気持ちとして曇りのない祝福を僕の心が求めているのです。
祝福を与えることで喜びを生み出し、更なる繋がりを作り、生存を確実にするために。
この結論を導き出したとき、自分のことをほんの少しだけど、底知れないなと思いました。
自分を追い詰めてしまうほど、生きることに、なんて真っ直ぐでピュアで全力なのだろうと。
僕だけが劣るという劣等感と一点の曇りなく祝えという高い意欲。
全ては過去の繋がりの喜びから出たもので、厳しさとも取れる意欲の高さは、今後も繋がり、生存を確実にしたいからだと分かりました。
このカラクリが分かったとき、僕自身の生きることへのエネルギーの高さに驚きました。
あまりに強い自己否定は、あまりに強い生存への意欲でもある。
このマグマのような生命エネルギーを自分責めにあてていたけれど、自分の内側を整え満たした後に、創造へと発揮していくならば、一体どんな未来が拓けてくるのでしょうか?
自分をねぎらい自己肯定感を高め、過去の痛みの記憶を心理法則に基づいて解釈を変えて、得られた解釈に対して更にねぎらうという行為を重ねてきました。すると、少しずつ湧いてきたのです。行動したいというエネルギーが。ブログを再開したのはほんの一例です。
おぼろげだけれども確かにある行動したい欲求。このような過程を経て、少しずつ浮き彫りにしていきますね。恐らく今後、こういう方面で、こういうことをやりたい!というのが明確になってくると予感しています。
また最後に、今回自分を見つめた結果、今はもう曇りなく友人を祝福出来るなと思えるようになりました。劣等感が小さくなり内側の欲求を認めたことで。晴れやかだ!!
※補足:今後の人生設計で結婚とかは数年先と考えていたので、僕が1番最後になるのは当然予測出来ることでした。タイミングもあるのでしょうが、1人で勝手にこれほど劣等感を感じているのが、冷静になって考えると面白おかしいですよね笑。
こうして掛け違えているボタンを少しずつ直してやりたいと思います。
ちゃんちゃん。
PS.
ご覧頂いた通り犬飼ターボさんのセンターピースを受講しています。
講座を通して得た学びをもとに、僕の過去や現在やこれからの未来について思いを巡らせて、あれこれ頭をグルグルさせてみたり、ガガッと揺れ動く心の様を言葉にして伝えています。
こうして書き上げた記事を通して、センターピースを受講した後の日々の緩やかな変化を擬似体験してもらい、僕と同じように楽しい成長を味わう喜びを感じていただけたら嬉しいです。
もし僕と同じように人生について、何らかのもどかしさを抱えていたり、パンッ!!と弾ける喜びを感じたいと思っているあなたの、ちょっとしたお役に立てればと思い下記に記事をまとめました。ご一読下さいまし!!
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