ゲシュタルトの祈りで期待という言葉に振り回されず自分の人生を歩む

期待

この言葉にどんなイメージを持ってる?

何か自分のためによくしてくれることを望むことであったり、
応えることで認められたいというイメージかもしれない。

他にも、よくしてくれることを望んでいたのに叶えられず失望することであったり、
応えられず自分を責めてしまうというイメージもあるかもしれない。

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期待とは

期待とはGoo辞書によると、

[名](スル)あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること。

とある。

期待とは望みであって、楽しみにすることなんだよね。

明確な期待は応えやすい

その期待ってやつが、明確であれば、難易度の程度もあるだろうけれど応えやすい。

例えば親が子供に牛乳を買ってきてーっていうお遣いを頼んだとする。
子供は牛乳を買ってくれば期待に応えたことになるし、買わなければ応えていないことになる。

めっちゃ単純明快だよね。

明確でない期待は応えにくい

一方で、期待が明確でなければ、何をどうすれば応えたことになるのか分からないので、応えることは簡単ではない。

例えば僕の過去の事例なんだけど(恨み辛みがあるのでちょっと長くなる笑)、

以前商品の仕入担当をしており、担当商品群の在庫管理・売上利益管理・商品開発を主に従事していた。

期首に賞与と連動する目標設定を行うが、売上利益額と商品開発が主な目標として設定した。

期末に入り蓋を開けてみれば、売上利益は目標比125%で商品開発は目標比150%(前年比300%)の数字を残した。

 

しかし査定は最低評価。

 

理由を尋ねると返ってきた応えは、期待通りの働きをしていないから。

 

目標を大幅に達成しているのに期待通りではない。頭の中が???で溢れるほど摩訶不思議な答えだったので、「その期待ってやつは一体何だ?」と更に突っ込んで尋ねると、どーやら僕は採用コストがかかってるのでもっともっと頑張らないといけなかったらしい。

 

もっと頑張るにしても、どれだけやれば期待に応えられたことになる?

このように期待する内容が明確でなければ、どれだけやっても期待に応えられない底なし沼に入り混むようになる。

期待に振り回されないためにはゲシュタルトの祈りを胸に留めておく

過去の例があってからというもの僕は期待という言葉のイメージを、かける側が他人を支配しようとする意図を持ち、かけられる側が応えられずに自責の念に駆られるというとってもネガティブなものとして捉えるようになった。

 

「あいつに期待してたのによ〜…」とか「期待に応えられずすいません!」とか期待が使われるシーンに遭遇すると虫唾が走る思いで一杯となっていた。

 

そんなとき僕が出会ったのはゲシュタルトの祈り。

 

ゲシュタルト療法の創始者フレデリック・パールズによるゲシュタルト療法の思想を盛り込んだ詩で、期待に振り回されない考え方を表している。

私は私のことをします。
あなたはあなたのことをしてください。

私が生きているのはあなたの期待に応えるためではありません。
あなたもまた、私の期待に応えるために生きているのではありません。

あなたはあなた、私は私

もし、私たちの心が通じ合わなくてもそれは仕方のないことです

そして、私たちの心がたまたま触れ合うことがあればそれは最高に素晴らしいことです。

この祈りに出会えて本当にツイてる。

この祈りは要するに自分と他人の境界線をちゃんと引きましょーねってことだと思う。

僕は人の期待に応えるために生きてるのではないし、他の人もまた僕の期待に応えるために生きているのではない。

これを胸に留めておけば、期待したことが思い通りにならなくても癇癪を起こさずに済むし、期待に応えられず自分を罰する必要性なんてなくなる。

期待をかける側もかけられる側も振り回されずに自分の人生を歩む。ゲシュタルトの祈りは、そんな自分を後押ししてくれる詩。

おしまい。

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