今僕はとっても自由な状況にあると思っていました。
奨学金の返済も終えて借金もなく、未婚の独身でとっても身軽な状態です。
やりたいことは何をしても良い。とってもとっても身軽だ。
なのにとても窮屈に感じている自分がいます。
その気になれば会社員を辞めて、興味のある国々へ放浪することも出来る。
アイデアを元に事業を起こすことも出来る。
なのに、興味のあることには取り組まずただひたすらに現状に甘んじています。
僕はいい年をした独身。だけど結婚は当分考えていない。ましてやマイホームなんて。そして新しい車もいらない。
そこには養ったり、返済するという義務が生じるから。
義務に縛られる人生は避けたい。
もちろん将来的にはこれらを実現したいけど、まだ当分はいいや。と思って身軽な状態にいる。
でもねいざ自分が縛られていない身軽な状態に置かれても、
これといった興味のあることを片っ端からしておらず惰性の日々を送っています。
自分が望んだ身軽な状態であるのにも関わらずとても窮屈に感じている。
何だろうこの矛盾は?
と、こんな考えが最近頭の中を占めているんですね。
そんな時、こちらの記事が目に飛び込んできました。
引用
「自由を謳歌してる人が家庭を持ったら不自由になるんじゃないの?」
「自由ってたくさんの選択肢があってベストなのを選べるってことだよね。そのベストな選択肢が家庭を持つだったわけだから、引き続き自由を謳歌してるってことなんだよ。」
と先日若い友人とのやりとりw
僕にとってタイムリーで、なるほど!と唸る内容。
自由を謳歌している人は、選択肢がある内からベストな選択をしている。
いくら身軽であろうとも、選択肢が無ければ選ぶことは出来ないし、ましてやベストと判断出来る基準が無ければ何を選べば良いのかわからない。
僕がこんなにも悶々としているのは、まだまだ選択肢が無くて基準が確立されていないからだということが分かりました。
となれば、
興味のある分野をやれている人。自分が学びたいと思える人。判断軸を持っている人に極力触れる機会を持つことが、打開の鍵を握ると思っています。
自分でかけている制限を取っ払い、不自由から自由へと転じるきっかけになるに違いない。
何となくだけど、僕の中には既にベストの判断軸があるのだけれど、それを選べなくなっている。もっと本心に寄り添い満たして上げることが必要。そんな気がしています。
おしまい。